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 鯛せんべいの由来

日蓮宗の開祖、日蓮聖人は、貞応元年( 西暦1222年 )2月16日、
小湊片海の地に誕生しました。
その時、庭先から泉が湧き出し産湯に使った「誕生水」、
時ならぬ時に浜辺に青蓮華が咲いた「蓮華ヶ淵」、
海面に大小の鯛が集まった「妙の浦」
という不思議な「三奇端」が伝えられています。
文永元年10月(西暦1264年)日蓮聖人が、父祖の供養のため当地へ帰られたおり、海に向かって祈られ、南無妙法蓮華経のお題目を書かれました。すると波の上にその文字が現れ、同時に多数の鯛が寄り集まって、そのお題目を食べ尽くしてしまったということです。村民達は奇跡に驚き、以来、鯛を聖人の生き姿と考えて信仰し、殺傷禁断の聖地とし、数百年間餌を供して守護し続けてきました。現在では国の特別天然記念物に指定されております。

 その鯛に因みまして大正時代に町内の「鈴木屋洋物店」店主、鈴木貞作さんという方が観光地に相応しい銘菓をと提案し、天津の「廣木堂」さん(現在は残念ながら製造されていません)で 「小湊名物 元祖 鯛焼煎餅」 として作られたのが鯛せんべいの始まりです。鯛に因んだと言いましても地元「妙の浦」の鯛は禁漁ですので使えません。現在と違って流通の発達していなかった当時の事、思案の末、せめて形だけでもと、妙の浦の朝日輝く波間に跳ねる大鯛を模して考え出されました。当時は小麦粉に砂糖を加え、鯛の鱗に見立てた白胡麻をまぶして焼いていたそうです。後に口あたりをよくするために鶏卵を加え、白胡麻をけしの実に変えるなど試行錯誤が繰り返され戦後、現在の姿に落ち着きました。
 弊店では、江戸時代文化年間より、当地にて代々紺屋(こうや・・・染物屋)を営んで居りましたが、 大正末から昭和初期、先々代英一が14歳の頃、廣木堂さんへ奉公し、鯛せんべいの技術を修行、暖簾分けを許され、当地にて「廣木堂支店 小湊 鎌田製菓舗」として創業し現在に至るまで引き継いでおります。
 今後も皆様に愛される南房総の銘菓として、ふるさとの懐かしく変わらぬ味を守り続けてまいります。どうぞよろしくお願いいたします。

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鯛せんべいの製造風景

鯛せんべいは手作りです。

 こう書くと驚かれる方も多いと思います。もちろん、一切機械を使わない訳ではありません。ミキサーやトンネルオーブンなど、機械化できるところは出来る限りしています。しかし、一番大事な、焼き上がった鯛せんべいを形から剥がし反りをつける工程は、創業以来変わらずに手作業にて行っております。理由はその独特の製法にあります。        

 鯛せんべいは、柔らかめの種を図柄入の銅型に薄く流し入れて焼き上げます。その際、裏面が白くなる様に、下火をほとんど使わず、ほぼ上火のみを用いる為、型にくっついてしまい、手作業以外では綺麗に剥がす事ができません。テフロン加工の型を使ったり、離型油脂を多めに使用すれば、剥がれは良くなりますが、種が柔らかく薄いため、表面張力により縮んでしまいます。

 言い換えれば、わざと型にくっつけて縮むのを防いでいる訳です。当然、剥がれは悪くなりますので、焼きあがり直後のまだ熱いうちに、「目打ち」という先の尖った道具でこれを無理やり剥がし、木製のトイ型の上に並べて反りを付けます。オーブンの温度は約250℃。真夏には40℃にせまる室温の中での過酷な作業になります。1日に約25000枚を焼き上げておりますが、すべてベテラン職人の手によって一枚一枚製造されています。 (弊店駐車場脇より、窓越しに作業をご覧頂けます。是非お立ち寄り下さい。)

 今後、技術の発達により機械による生産が可能になるかもしれません。しかしながら、弊店では、廣木堂さんから受け継いだ技術を守り、伝えていく事を使命と考え、時代遅れかもしれませんが、手作業にこだわって参りたいと思います。

手から手へ、人から人へと、私どもの真心をお客様へお届け致します。


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